2012年3月5日月曜日

2011年4月 - 日々の日記

2011年4月 - 日々の日記

 よく、「他人の不幸は蜜の味」という。僕も、それはよくわかる。ただ、そういう感情をネガティブな感情だと思う人も多いと思うが、僕は必ずしもそうとは限らないと思う。たとえば誰かが離婚したとする。けんかして別れたという時には、なんだか力が抜けて気持ちいい。大事なプレゼンを失敗したとか、自分の失敗のためにスポーツの試合に負けたとか、そういうのを聞くと、なんだか開放感を覚える。「ざまあみろ」というのではなくて、そういう人も気軽に暮らせる世の中がいいよね、という感じ。その人もそういう側に加担してくれそうで。この世の中が、余りにも段取りよく定式通りにすすむと、それをちょっと乱しただけでも後ろめたい気にさせられる社会で、そういう調子をはずしてくれてありが� �う、みたいな感じ。
 たとえば同じ不幸でも、同じ離婚でも、相手が自殺したとか、病気で死んだとか、そういうのは、「ああ気の毒に」と思う。蜜の味は全然しない。だから僕に良心がないわけではない。

 僕は、2月頃だったろうか、まだ冬真っ只中だった。何気なくフィッツジェラルドの短編集の文庫本を開いた。この本はずいぶん前から僕の本棚にあったけど、僕は今までフィッツジェラルドなんて読んだことがまったくなかった。村上春樹が訳したもので、最初の一つを読んで、それが僕の暗い心とシンクロしてしまって、かなり本気で落ち込んだ。


NFLのチームがマスコットを持っているもの フィッツジェラルドは1896年に生まれ、1940年に44歳で死んだけれど、分りやすいのが、彼が作家として華々しくデビューし、憧れの女性ゼルダと結婚したのが1920年。それからアメリカの隆盛期の20年代にものすごい流行作家として活躍したが、1929年の大恐慌があり、1930年に妻のゼルダが精神病に倒れ、そのあたりから彼は人気がなくなり、収入も激減し、以後死ぬまで不遇。1920-(絶頂)1930-(不遇)-1940(没)と、きりがいい。20年代の超売れっ子だった時は妻のゼルダと信じられないぐらいの豪遊をして散在をしていたが、それと対照的に30年代は妻の精神病と自身のアルコール中毒と借金でかなり悲惨な暮らしをした。< br />  僕の読んだ短編小説には、昔は金持ちの成功者だったけど今ではすっかり落ちぶれた主人公という設定がよく出てくる。そのうちあるものは30年代の自身の経験を踏まえて書かれたものもあるが、興味深いのは、1920年の華々しいデビューの年にも同じように落ちぶれた元セレブリティーの話を書いている。30年代に書かれた実体験をもとにした落ちぶれ話は、ねっとりとした生活感と、少しずつ現状が悪くなりながらも生活のバランスをとる生命のしたたかさが伝わってくる。それとは違って、デビューの年に発表された「残り火」という短編では、落ちぶれ方が、雪が静かに美しく結晶していくような感じで、生活のねっとり感がなくて、かえって晩年の悲惨な実体験の話よりも僕の心を直撃するものがあった。
 村上春樹が「フィッツジェラルド体験」というエッセイで、「バビロン再訪」と「冬の夢」の2つの短編を特にすごいと言っているので、この「マイ・ロスト・シティ」という短編集を読み終わった後、ちょっと読んでみることにした。でも近所の何軒かの本屋や古本屋を回ってもどこにも置いてなかったので仕方なくネットですでに著作権が切れているので公開されている原文をプリントアウトして、"Babylon revisited"を原文で読んでみた。そしたら、かなり短い短編ながら、ほんとに効率のよくうまい技法でストーリーが書かれているけれど、僕の心に届くものはなかった。それに対してデビューの年の「残り火」は、小説手法という感じもなくて、ただ直線的にストーリーが進んでいき、最後もあまりにオチがなさすぎて、これでいいのかな?と思うぐらいだたけど、それでも内容に身につまされるものがあった。これはちょうど落ち込んでいるタイミングで読んだことが要素としては大きく、別の時に読んだらただ通り過ぎただけだったろうけれど、小説を読んでここまで追い込まれるような気分になったことってあるかな?と思うほどだった。

 僕は今までスコット・フィッツジェラルドに関する知識はほぼゼロだった。アメリカの隆盛期 とともに歩み、その後にきた深く長い後退期の中で何度も再浮揚を狙いながらも決して報われることがなく落ちぶれて死んでいったこの作家の人生をネットで調べていると、「残り火」で味わわされた感情の上にさらに重ねて暗い気分を味わわされた。スコットの妻のゼルダが1930年に発作を起こして精神病院に収容された。1920年代に10年間続いたスコットとの無茶苦茶な豪遊が原因だと書いてあるレビューもあった。


トップNFLのプレーヤーのリスト しかし僕がもっとひやりとしたのは、スコットがゼルダに言ったという言葉だった。いろんな条件が整えば、人間は言葉ひとつだけで誰かをこの世の外に突き落とすことがあるのだ、という思いにとらわれた。ゼルダ自身も自由奔放な性格で、他の男と浮気をしたことがあるが、スコットも何度か浮気をしていて、ゼルダはそのたびに非常に激しい感情を表している。1927年にスコットは、ハリウッドで出会ったLois Moranという17歳だがすでに成功している女優と浮気をする関係になる。

1927年、1月、ユーナイテッド・アーティスト社の依頼で、コンスタンス・タルマッジ主演のためのシナリオ執筆のために、ハリウッドに行く。
ビックフェアでの昼食会で、17歳の女優のロイス・モーランと知り合い、ひきつけられる。

ゼルダは、彼をせめるが、スコットはロイスとの交際が、きわめて軽いものであったことを、主張しながらも、ゼルダにむかい、少なくとも、ロイスは、ひとかどの仕事をなしとげているんだぜと、指摘した。

この言葉は、ゼルダの誇りを深く傷つけた。

1928年、4月、ゼルダ、ロイス・モーランにたいする対抗意識から、バレリーナを志す。
スコットにしてみると、どうせ、また移り気な道楽がはじまったとしか、うけとられなかった。
また、あきらかに、真剣にバレエに取り組むには、27歳という年は、おそすぎたが、ゼルダは、病的なまでに、バレエのレッスンにのめりこんでいった。

彼女は、朝からはじまるクラスに出席し、午後からは、心服していたマダム・エゴローヴァの個人レッスンをうけ、うちに帰ってからは、さらに、四時間の練習をした。

当然のごとく、夕方には、彼女は、くたくたになり、スコットとどこかにでかけたりすることは、できなくなっていた。また、酒くさい夫とのセックスは、彼女を不快な想いにさせ、いらいらとするだけだった。

そのような彼女の態度は、スコットとの関係の悪化にもつながった。

また、バレエのレッスンの多額の費用をかせぐために、彼女は、小説を書き始めた。なぜなら、そのころには、� ��女は、スコットの世話になりたくないと思うようになったのである。

特に、バレエに関しては、年齢からしても、ある程度の見切りをつけるべきだと、彼は、ゼルダに忠告した。

しかし、彼女は,彼の言葉には、一切、耳を貸さず、バレエむきの体を作るための、極端なダイエットと、過度のレッスンのために、神経衰弱気味に、なっていく。

1930年、大恐慌の半年後の、4月、ゼルダは、パリで、バレエ学校にむかうタクシーの中で、ヒステリー性の発作に襲われ、精神病院に収容される。精神分裂症と診断される。


遊んでいる9月10日にbucsフットボールの試合

 ところで、「精神病」なんていう言葉があるけれど、それは人間にしかないものだろうか?犬やネコやイルカにも、精神病ってあるのだろうか?仮に「精神」を持っているのが人間だけなら、そういう病は人間にしかないことになる。仮にそうだとして、その「精神」って何でできているんだろう?たぶん精神という言葉自体、ハッキリと定義づけられた言葉では必ずしもないだろうが、それは言葉なくしては成立しないだろう。言葉によって直接できているのではなくても、言葉によってはじめて存在する何かを前提にしていると思う。カブトムシのオスとメスも、人間と同じく交尾する。しかし、それによってこれからはいつも一緒だなんて誓い合 わないし、そのオスが後日他のメスと交尾しているところに出くわしたとしても、嫉妬にかられたり精神を病んだりすることもないのだろう。交尾した相手が鳥に食べられたり、死んだりしても、それによってわが身の危険を感じて逃げることはあっても、大切な誰かが死んでしまったから葬式を挙げたい、みたいなことは思わないだろう。社会・文化も、人の内面にある精神も、それを作っている材料は、言葉だと思う。言葉、言語。それをもとに、いろんな概念や常識や、あてにできる前提や、信頼といったものができ、人はそれをあてにして社会生活や精神生活を営んでいるんだと思う。だからそれが壊れるのは、言葉によるだろう。ある言葉を投げかけたり、逆にある言葉を言わないことで、それが可能だろう。人はただ言葉だけ� ��恋に落ちることも可能だ。写メも見たことのないメル友と恋に落ちることもある。小説の中のヒロインを好きになることもある。
 ゼルダは、スコットの「少なくとも、ロイスは、ひとかどの仕事をなしとげているんだぜ」という言葉でこの世の外に放り出されたのだ、と僕は感じて、この世のへりから地獄の底を覗き込むような殺伐とした気持ちになった。僕は今までの人生の中で、人間が気が狂うことなんて簡単にできる、と感じることが何度かあったが、この時もそれに近い気分だった。調子の狂った言葉一つ聞いただけで、この世はこれほど簡単に崩壊してしまうのだ、と思った。ちょうどオーケストラの演奏の途中で調子の狂った音を鳴らすだけで音楽を崩壊させることができるのと同じぐらい簡単に。
 だから、親子、夫婦、肉親の間で言ってはいけない言葉がある。政治家にも、失言がある。本当だからこそ言ってはいけないことがある。「中小企業の社長が自殺してもやむをえない」とか、ホンネだからこそ言ってはいけないことがある。


 ところでゼルダとスコットの件とは対照的に、やはり言葉を扱う商売をしていた、落語家の古今亭志ん生の例。ずいぶん昔、テレビで見た記憶をもとに言うが、志ん生は自分の妻のことを、クソババア、と呼びかけていたという。妻のほうも、クソをしないババアがどこにいるんだよ、と応じていた。夫婦のふだんのやりとりがそのまま落語みたいだったと。敗戦の時、志ん生は大陸のどこかにいたが、戦後ずいぶん長い間家に帰らないので、家族はあきらめていたが、ある日「今けえったぞ」と散歩から帰ったみたいな感じで家に帰ってきたという。
 ここでは言葉が果たす役割がずいぶんと違う。志ん生は結婚したその日に女郎屋に行ったという。「すくなくとも彼女はひとかどの仕事をなしとげてるんだぜ」ぐらいの言葉では揺るがない世界がそこにある。これは無知で文化の低い下層階級の生活ではなくて、芸術祭賞や紫綬褒章も受賞した極めて文化的価値の高い落語家というか、ものすごい質の高い芸術家がこういう環境で人生を営んでいた。これはたぶん今の若い日本人夫婦でもこういう感じはあまりないと思われる。クソババア呼ばわりされて平気な妻がどれぐらいいるだろう。
 
 志ん生が紫綬褒章を受賞した時、すでに体が悪くなっていたので、一緒についていった妻が賞状をかわりに受け取ったという。で、志ん生が「なんだかおめえが紫綬褒章もらったみてえだな」と妻に声をかけたという。そう言われて妻は涙が止まらなかったという。これも、妻は志ん生の言葉に涙したというより、言葉の裏側にある気持ちに涙したはずだ。たぶんゼルダとスコットのような言語環境なら、この場合、「ずっと自分と人生を歩んでくれてありがとう、最愛のハニー」みたいになると思われる。志ん生の言葉は、そういう気持ちに直接言及するのではなく、そういう心が自分の中にあることをちらっと示唆しているだけの言葉だ。
 人間の文化・社会生活は言葉があって始めて成立する。だから逆に不適切な言葉によってそれを破壊することもできる。しかし志ん生のケースでは、もちろん言葉を発しながら夫婦生活を築いてきたはずだが、その底で、言葉にならない何かを時間をかけて育んでいったと思われる。どんな言葉を発しても揺るがない部分を形成し、それを人間関係の土台にしている。だからクソババアみたいなひどい言葉を発しても人間関係、信頼関係の土台は少しも揺るがないし、おそらくそういう信頼関係をさらに強化するためにあえてクソババアみたいな言葉を使っていたかもしれない。こういう世界では、一日一回「愛してるよ」なんて言うみたいな習慣は意味がない。むしろマイナスの効果があるぐらいだ。

 これは僕が隠れた名著(� ��れもかなりの名著)だと思っている、「ユニークな日本人」(G・クラーク+竹村健一、講談社現代新書 1979年)からの引用。日本と西洋の文化・社会のありようの違いについて論じている。

クラーク: 甘えとか義理人情にしても、われわれの欧米社会にももちろんあります。しかし価値観にはなっていません。

竹村: それは押える方向へきたわけですか。

クラーク: とくに甘えは押えてきた。義理と人情は、別の形で、原則やイデオロギーに基づいて出てきますね。たとえばキリスト教の原則である、"Love thy neighbour."(隣の人を愛せよ)は、しいていえば日本の人情です。われわれは、キリスト教が"Love thy neighbour."とおっしゃったから、そうしなければならないと考えます。つまりわれわれのは客観的な基準なんです。人情は別に説明の必要はありません。日本は昔からそうだったのです。

竹村: 人間の本能から出て・・・。


クラーク: 本能から出てますから、日本人の義理人情の場合は説明がつかない。・・・昔から引きついでいる習慣や伝統というかたちで守られています。欧米人は、どうしても原則的・イデオロギー的に説明しなくてはなりません。結果はほとんど同じであることが多いのですが。(p115-116)


 ここでG・クラークが言っているのは、人間どうしが結びつきあう気持ちについて。日本だろうが欧米だろうが、そういう気持ちに共通のものはあるが、それを心の中でどう位置づけたり説明するか、どういう様相で存在してるかにかなりの違いがある。日本の場合それを「甘え」とか「義理人情」と呼ぶ。英語には「甘える」にあたる言葉が存在しないというのは土居健郎の古典的名著「甘えの構造」(1971)でなされていて、それ以来日本の文化を語る時にはしばしばその分析の対象になる言葉だ。「義理人情」も、訳しづらい言葉だろうが、どちらも日本人にとっては自然で、本能的な言葉だ。「説明の必要はありません」「説明がつかない」そういう何か。クラークは、それにあたる何� ��は、英語の言葉としてはないが、「われわれの欧米社会にももちろんあります」という。「しかし価値観にはなっていません」というか、言葉にすらなっていない。そのかわりに、キリスト教が「隣人を愛せ」と言ってるから自分たちは隣人を愛すのだ、という位置づけになっているという。これは、日本の義理人情が「説明がつかない」のとは対照的で、「どうしても原則的・イデオロギー的に説明しなくては」いけないということだ。これは志ん生夫婦とゼルダとスコットの関係にそのまま現れていると思う。志ん生夫婦を結び付けているものは「説明がつかない」義理人情みたいなものなので、言葉でどうなるというものではない。だからクソババアと言っても平気だし、逆に、愛してると言わなくても平気。でもゼルダとスコッ� �の関係は、説明しなくてはいけない何か、ということは、当然、言葉に関わる何かだ。だからアイラブユーと言う言葉が大事だし、逆に、相手を裏切るような言葉は関係を壊してしまう。「不立文字」「道の道わざるは道にあらず」の東洋と、「初めに言葉ありき」の西洋の違いがそのままここにあると思う。
 人間関係としてどちらが磐石かは言うまでもない。どんな言葉を投げつけても壊れない何かが確かにそこにあると志ん生夫婦は信じることができる。どんな宗教よりも確実な何かがある。この「義理人情」というものは、日本人をすっかりやめるぐらいしなければなくならない。でも日本人が日本人をやめるなんて、不可能ではないにしても、とてつもなく困難だと思われる。国籍のことを言うのではなく、内面の問題として。キリスト教の場合は、やめられるはずだ。洗礼の逆のことがきっとできるはずだ。しかし、我々日本人が空気のように当たり前に思っている、本能的に備わっていると思われる何かとどうしようもなく結びついている日本人性、かつて山本七平はそれを「日本教」と呼んだが、この日本教を辞めるのは、辞め� �がまず分らないはずだ。我々はこの日本教という深い催眠術にかかっていて、覚め方が分らない。西洋では言葉すら与えられていない「義理人情」とか「甘え」なんてものをド当たり前に普通に人間にあるでしょ?と思っている時点でもうどうしょうもなく日本教徒である。日本教徒の辞め方なんて、そう簡単ではなさそうだ。
 だから志ん生夫婦はものすごく磐石な夫婦だけど、別の視点から言えば、彼らが離婚して別の異性と結婚したりする可能性をほぼゼロにしている。夫婦の場合はそれで構わないが、こういう磐石な関係が、夫婦以外のところであった場合、問題は厄介になる場合もあろう。たとえば会社の人間関係がそういうふうだったら。



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