トム・ブレイディ(Thomas Edward "Tom" Brady,Jr.1977年8月3日生まれ )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身のアメリカンフットボール選手である。ニックネームはトム・トリフィック[1]。ポジションはクォーターバック(QB)で、NFLのAFC東地区に所属するニューイングランド・ペイトリオッツでプレーしている。2000年代から現在にかけてのNFLを代表する選手の一人である[2]。NFLドラフトで6巡全体199位で指名を受けプロ入りを果たすと2年目から先発QBに定着し、以後3度のスーパーボウル制覇を達成している。6度のプロボウル選出のほか、それぞれ2度のNFL MVP、スーパーボウルMVP、リーグ最優秀攻撃選手の選出を誇る。リーグMVPとスーパーボウルMVP双方の複数回受賞はブレイディを含めリーグ史上2人しか成し遂げていない快挙である。
[編集] プロ入り前
サンフランシスコにほど近いカリフォルニア州サンマテオで生まれる。出身高校は地元サンマテオのジュニペロ・セラ高校で[3]、同校はNFLの殿堂入りワイドレシーバー(WR)であるリン・スワンや野球選手のバリー・ボンズなど多くのスポーツ選手を輩出している。小さいころからサンフランシスコ・49ersのファンで、QBジョー・モンタナは彼のアイドルだった[4][5]。高校時代までは野球もプレーしており、1995年にはMLBのモントリオール・エクスポズから捕手としてドラフト指名を18巡で[6]受けている[7]。
1996年にミシガン大学に入学する。チームには後のプロボウルQBであるブライアン・グリーシーなどが在籍しており、ブレイディは当初7番手QBだった[5][8][9]。激しい競争の中でブレイディはスポーツ心理学者を雇い不安やフラストレーションへの対応を学ぶが、同時に転校も考えていた[9][10]。最初の2年間を控えで過ごしたのち1998年に後にメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースに入団するドリュー・ヘンソンとの激しい競争の末チャンスを掴むと[10][6]、以後チームのスターターQBとして定着し25試合で20勝をあげた。1998年シーズンにはチームのシトラス・ボウル制覇に貢献し、1999年シーズンにはオレンジボウル出場を果たすとアラバマ大学とのオーバータイムの激戦を35-34で制し、ブレイディはパス369ヤード4タッチダウン(TD)の活躍でチームの勝利に貢献した。
しかし2000年のNFLドラフトではドラフト6巡(全体199位)指名と高い評価を得ることができなかった。あるレポートでは「貧層な体格で、細く痩せこけており、機動力とラッシュをかわす能力を欠いていて、強肩でもない。」と評価されていた[8]。ブレイディの前には後のプロボウルQBであるチャド・ペニントン、マーク・バルジャーなど合わせて6人のQBが指名されていた[5]。2011年にESPNがブレイディとブレイディの前に指名された6人のQB達の人生を追った"The Brady 6"というドキュメンタリーを作成した。その中でブレイディはドラフト当時を回顧し、指名が遅れた悔しさや長年支えてくれた両親への思いなどから涙を浮かべた[11]。またドラフトされた瞬間については「最高に興奮したよ。『これで保険会社のセールスマンにならなくてすむんだ!俺は指名されたよ。ありがとう神様!』」と振り返っている[12]。
[編集] ニューイングランド・ペイトリオッツ
[編集] 2000年シーズン
ブレイディはドラフト指名を受けたAFC東地区に所属するニューイングランド・ペイトリオッツに入団した。チームのオーナーであるロバート・クラフトに初めて名前を呼ばれたときは誤って「カイル」と呼ばれた。(オーナーがタイトエンド(TE)カイル・ブレイディと混同したため[5][13]。)ブレイディは「ミスター・クラフト、僕を指名したことは今まであなたの組織が下してきたなかで最高の決断です。」と真剣に語った[5][10]。
ペイトリオッツではスーパーボウル出場経験もあるエースQBのドリュー・ブレッドソーがスターターQBを務めており、またブレイディを含めチームには4人のQBがいた。ルーキーのブレイディは最初のトレーニングキャンプを4番手QBの待遇で過ごし[10]、レギュラーシーズンでは敗戦濃厚になったデトロイト・ライオンズ戦でプロ初出場を果たしたがルーキーシーズンの出場はこの試合だけであった。ブレイディのプロ一年目はパス3回中1回成功6ヤードTDなし、4人のQBの中で最も少ない出場に終わった。名門ミシガン大学で2年間エースQBとして活躍したブレイディにとって、ドラフトでの低評価や一年目のチームからの評価は少なからず屈辱的なものであった[9]。ある日ブレイディはQBコーチが置き忘れたノートブックを好奇心からめくってみると、そこには「反応が遅い」などといった厳しい評価が記されており、「彼は全てにおいてスピードを上げる必要がある。」と指摘されていた[6][13]
[編集] 2001年シーズン
チームはオフにブレッドソーと10年1億300万ドルという大型契約を結んだ[14]。またブレッドソーの控えとしてデーモン・ヒュアードを獲得し、依然としてブレイディの評価は決して高くはなかった。ブレイディはQBコーチのディック・レイバン(レイバンはブレイディを高く評価し、ドラフト指名を進言した人物でもある[5]。)と共に練習に明け暮れるが、2001年の8月にレイバンが心臓発作のため帰らぬ人となった[10]。当時チームはトレーニングキャンプの最中だったため、レイバンの代わりにヘッドコーチ(HC)のビル・ベリチックがQBコーチの役割を引き継いだ。これがブレイディにとって転機となる。ベリチックはヒュアードではなくブレイディをブレッドソーのバックアッパーとして起用することを発表し[10]、ブレイディはその後のプレシーズンゲーム3試合に出場し上々の成績をおさめた。
アメリカ同時多発テロ事件で中断されていたレギュラーシーズンが再開された9月23日、第2週のニューヨーク・ジェッツ戦でさらに大きな転機が訪れる。エースQBブレッドソーがモー・ルイスのハードタックルで胸部内出血の重傷を負い、代わりにバックアッパーであったブレイディが出場した[6]。この出来事は後述のペイトリオッツ王朝の始まりとして語られることがある[15]。この試合には敗れたが、続く第3週でプロとして初のスターター出場を果たしインディアナポリス・コルツを44-13で破ってキャリア初勝利をあげた。第5週のサンディエゴ・チャージャーズ戦ではキャリア初のTDパスを通すとともにチームを見事な逆転勝利に導き、第6週ではコルツを相手に3TD、QBレイティング148.3と自身最高のパフォーマンスでチームの勝利に貢献した。第15週のマイアミ・ドルフィンズ戦では23ヤードのパスレシーブも記録している。ブレッドソーが戻った後も先発を任されたブレイディはペイトリオッツの正QBに定着し、シーズンでパス2,843ヤード18TD、QBレイティング86.5という活躍をおさめ初のプロボウルに選出された。ブレイディの活躍やHCベリチックの指揮するディフェンス陣の奮闘もあり、チー� �は11勝5敗で地区優勝を果たし第2シードでプレーオフに進出した。
[編集] プレーオフ
ホームのフォックスボロ・スタジアムで行われたディビジョナル・プレーオフでは豪雪の中オークランド・レイダーズと対戦した。前半はインターセプト(INT)を喫するなど第4Qまで13-3とリードを許すが、その後自らのTDランで追い上げると3点を追う試合時間残り2分6秒からのドライブでは疑惑の判定の後アダム・ビナティエリが45ヤードのフィールド・ゴール(FG)を決め同点に追いつき試合はオーバータイムへ突入する。先にレシーブを得たペイトリオッツは敵陣28ヤード地点での4thダウンギャンブルを成功させるなどして敵陣深くに進入し、最後は再びビナティエリがFGを決め16-13の逆転でレイダーズを撃破した。第4Q終盤での疑惑の判定は大きな波紋を呼び、この試合はその判定が下された元となったルールの名称をとってタック・ルール� ��ゲームと呼ばている。このタック・ルール・ゲームはその後のブレイディとペイトリオッツの運命を大きく左右した試合として知られている[16]。AFC第1シードのピッツバーグ・スティーラーズとの対戦となったAFCチャンピオンシップゲームではブレイディが第2Q途中に負傷するアクシデントに見舞われるも、スペシャルチームの活躍や代わったブレッドソーがTDパスを決めるなどして試合を優位に進め、24-17でスティーラーズを破りチーム史上3度目のスーパーボウル出場を果たした。
リーグトップのオフェンスを誇るセントルイス・ラムズとの対戦となった第36回スーパーボウルでは、第2Q終盤にブレイディがWRデイビッド・パッテンへTDパスを決めるなど圧倒的不利と言われていた前評判を覆し[17]、一時はペイトリオッツが17-3とリードを奪った。しかし第4Qにラムズが猛追を見せ、第4Q残り1分21秒というところで17-17の同点に追い付かれた。試合はスーパーボウル史上初のオーバータイムにもつれるかと思われたが、ブレイディはタイムアウトを使いきった自陣15ヤードからのドライブをWRトロイ・ブラウンへのパスなどで敵陣31ヤードまで進め、残り7秒から最後はビナティエリの決勝FGでタイムアップとなる劇的なウイニングドライブを決めた。
スーパーボウル制覇を成し遂げたブレイディはQBとしてNFL史上最も若い(すべてのポジションを含めれば3番目に若い)スーパーボウルMVPに輝いた[18]。また24歳でのスーパーボウル制覇は当時のスーパーボウル優勝QB最年少記録であった[19]。NFL史上に残る番狂わせ[17]に貢献したブレイディは以後NFLのスターダムへと駆け上がっていく[20]。
[編集] 2002年シーズン
ブレッドソーが同地区のバッファロー・ビルズへと去り名実ともにペイトリオッツのエースQBとなったブレイディだったが、チームは序盤から中盤にかけて4連敗を喫するなどこのシーズンはレギュラーシーズンを9勝7敗で終えプレーオフ進出を逃した。ブレイディはリーグ1位の28TDパスを記録したが、14INT、QBレイティング85.7、シーズン9勝7敗という成績は2010年シーズン現在まででキャリア最低の数字である。自身も肩に怪我を抱えるなど[21]チームを含め全体的に苦しんだシーズンであったが、第10週のシカゴ・ベアーズ戦や最終週のマイアミ・ドルフィンズ戦では劇的な逆転勝利を演出し、チームも最後までプレーオフ争いに加わった。ブレイディはこのシーズン以降2010年シーズン現在まで、毎週チームのインジュアリー・レポートに「右肩の怪我」で登録されている[22][23]。なおこの怪我を理由に公式戦を欠場したことは一度もない。
[編集] 2003年シーズン
第1週のバッファロー・ビルズ戦でブレイディは4INTを喫しチームは31-0で完敗した。第4週でも敗れ2勝2敗とスタートに失敗し、主力の放出と相俟ってHCベリチックに対して批判の声も上がった[24]。しかしその後チームは快進撃をはじめ、第5週からレギュラーシーズン終了まで12連勝を果たした。ブレイディはパス3,620ヤード23TDレイティング85.9の活躍をおさめチームは14勝2敗で2年ぶりの地区優勝を果たした。ブレイディはMVP投票においてダブル受賞したスティーブ・マクネアとペイトン・マニングに次ぐ票を獲得し[25]、プレーオフではその二人が所属するテネシー・タイタンズとインディアナポリス・コルツをそれぞれ破り3年間で2度目のスーパーボウル進出を決めた。
カロライナ・パンサーズとの対戦となった第38回スーパーボウルではスーパーボウル新記録となる32回のパス成功[18]を含む354ヤード3TDの活躍を見せ、29-29の同点でむかえた第4Q残り1分8秒からの攻撃ではビナティエリの41ヤード決勝FGにつながるウイニングドライブを決めチームを勝利に導いた。ブレイディは自身2度目となるスーパーボウル制覇とスーパーボウルMVP受賞を成し遂げた。スーパーボウルMVPの複数回受賞はジョー・モンタナ(3回)、テリー・ブラッドショー(2回)、バート・スター(2回)と並んでNFL史上4人目の快挙となった[18]。
[編集] 2004年シーズン
開幕から第8週で敗れるまで6連勝を果たし、NFL記録となる21連勝(プレーオフを含む)を達成した。ブレイディはパス3,692ヤード28TD、レイティング92.6の活躍で2001年シーズン以来自身2度目のプロボウル選出を果たし、チームは14勝2敗で2年連続の地区優勝を果たし第2シードでプレーオフに進出した。プレーオフ初戦のディビジョナル・プレーオフではリーグ最多得点のコルツをわずか3点に抑え20-3で完勝すると、AFCチャンピオンシップゲームではブレイディのQBレイティング130.5を記録する活躍などでリーグ最少失点のスティーラーズから41点を奪い41-27で勝利した。
フィラデルフィア・イーグルスとの対戦となった第39回スーパーボウルでは236ヤード2TDの安定した活躍を見せ24-21の勝利に貢献した。MVPはスーパーボウル史上最多タイ記録となる11キャッチを記録したペイトリオッツのWRディオン・ブランチが受賞したが、ブレイディはMVPを受賞した過去2回のスーパーボウルよりも高いQBレイティングを記録した。
ブレイディはテリー・ブラッドショー、ジョー・モンタナ、トロイ・エイクマンに次いで、スーパーボウルを3度制覇したNFL史上4人目のQBとなった[18]。また28歳の誕生日を迎える前にスーパーボウルを3度制覇したQBはNFL史上ブレイディただ一人であり、ブレイディはスーパーボウル3度制覇を成し遂げたNFL史上最年少QBとなった。またキャリア最初の5年間で3度のスーパーボウル制覇を成し遂げたのはNFL史上ブレイディただ一人である。スーパーボウル連覇の偉業に加え、プレーオフ無敗のまま4年で3度のスーパーボウル制覇を成し遂げたブレイディは「Patriots Dynasty」(ペイトリオッツ王朝)[26]の象徴としてNFLに一時代を築き上げた[27]。
[編集] 2005年シーズン
オフにスーパーボウル3度制覇を支えたオフェンシブ・コーディネーター(OC)チャーリー・ワイス、ディフェンシブ・コーディネーター(DC)ロネオ・クレネルの両コーチがチームを去った。マット・ライトやロドニー・ハリソン、タイローン・プールなど主力の怪我人の続出やディフェンスの不振などに苦しんだチームの中で、ブレイディ自身もスポーツヘルニアの痛みに悩まされる[28]など決して環境的に恵まれたシーズンでは無かったが、パス4,110ヤード26TDレイティング92.3とこれまでで自己最高クラスの成績を記録しキャリア3度目のプロボウル選出と初のオールプロ選出を果たした。チームは10勝6敗で3年連続の地区優勝を果たし、ワイルドカード・プレーオフではジャクソンビル・ジャガーズに28-3で完勝をおさめNFL新記録となるポストシーズン10連勝を成し遂げた[29]。しかし続くディビジョナル・プレーオフでは敵地インベスコ・フィールド・アット・マイル・ハイでデンバー・ブロンコスに27-13で敗れ、ブレイディはプロキャリア11試合目にして初のプレーオフ敗退を喫した。ちなみにブレイディ個人としてはミシガン大学時代を含めポストシーズン12連勝を記録している。怪我のためプロボウルは欠場したが[30]、試合前のセレモニーに歴代スーパーボウルMVPが招かれた第40回スーパーボウルではスーパーボウルMVPの代表としてコイントスを務めた。